米が炊けるまでの話
たまたま一緒になっただけ

6月2日(火)、ドレープカーテンの夜です。

 

 

朝からお腹が痛く、今日はほとんど絶食に近い。

昔ならお腹が痛いのはお腹の都合であってそれは俺には関係のない事だ、

とケンタッキーにむしゃぶりついていたものだが、もう30半ば。

そうもいかない、いきたくないという配慮というものが心に芽生えた。

人は歳を重ねるにつけて云々なんてことは言うつもりはないが、

腹の調子とは裏腹に今現在の私は穏やかなもんだ。

そんな私の気持ちを踏みにじるように明日もグルグル唸るようであれば

その時は致し方がない。午前中からコカコーラにピザでも流し込んでやる腹づもりである。

 

 

緊急事態宣言が解除され、私の住む街にもラッパが吹き鳴らされた6月の頭。

よく行く古本屋も勢いよくシャッターを開けて営業を再開した。

よく行くとはどれくらいなのかというと、およそ私の脳内にある活字の1〜2割はここから仕入れたものだ、

というような言うなれば私の言語家屋を支える太いヒノキの柱のような本屋である。

 

 

ここで買うものにはハズレがない、と思い出したのが20代前半だろうか。

と、今書いたところでひとつ疑問が出てきた。

果たして世の中にハズレの本屋なんてあるのだろうか。

 

 

本屋とは実にシンプルで本が売っているだけなのだ。

ぬるいコーヒーが出てくることもなければ、前の人の頭が邪魔で字幕が見えないなんてこともない。

となるとハズレの要素はどこにあるのかというと、どこにも見当たらないかもしれない。

買った本がつまらなくても本屋に責任はないし、そもそも一冊の本から1行も甘い蜜を吸い出せない当人に問題がある。

中身のないような本が真理を突つくこともあれば、難しくて到底頭では理解できない本を人知れず細胞が理解している時もある。

 

 

だから前述の「ここで」というのは間違いで本屋にはハズレがない、と言い直したほうがよいか。

でもやはり私はこの本屋を贔屓にしたいのであって、こんなにごちゃごちゃ言わんと要するに月が綺麗ですねって事なんだな。

 

 

 

さあ、そんな愛する古本屋であるが私の滞在時間はとても短い。

これは古本屋であるから、というのもある。

つまりもう世に出ているものを買う場所であるから、

開店前に並んでどうぶつの森の攻略本や人気作家の新作を買うのとは全くもって意図が違う。

極端に言うと、なんにも買いに行ってはいないのだ。

もちろん、随分古い作家のこれこれこういうものが欲しいと目的を持って古本屋を巡る人も

いるだろうし、あの本安くなってないかな、と戸を開く人もいるだろう。私も前はそうだった。

でも今の私はそういう考えではない。

なんだか自分の好みに自分が支配されている事に気づき、もう少し選択しないという選択を取るようになったのだ。

 

 

だから変な話、棚も見ない。もちろん背表紙も。

ただ店内を歩いて左右に並んだ棚に指を引っかけ、かかった5冊だけレジに持っていく。

おそらく1分もいないのである。

そうして家に帰って買ってきた本をテーブルの上に出すと、これが不思議な事にバランス良かったりもするわけで。

自分で買ったのにサプライズ感もあって楽しいのだ。

 

 

ただこんな事ができるのもしたいのもこの古本屋一軒だけであるから、

私がこのお店に抱く信用からくる甘えというかなんというか、

ごちゃごちゃ言わんと要するに月が綺麗ですねって事なんだな。

 

 

 

おやすみ日本

 

 

 

 

新夜便 comments(0) -
Comment








<< NEW | TOP | OLD>>